「~は科学的に証明されている」
現代人は科学の権威に弱く、こうした表現を目にするとその内容は疑う必要のない事実として受け入れてしまいがちです。
確かに、科学は仮説を向上させたり、その誤りを立証したりすることは得意です。
ところが一方、十分な科学的プロセスを経て過去に正しいとされた知識でも、後日誤りが指摘され、完全に仮説が覆ることがあることもまた事実です。
そこで今回は、論理的な思考方法、その中でもとりわけ科学的な推論を取り上げながら”前提を疑う視点”について述べていきます。
推論の構造と科学的知識の前提
【前提】科学的推論の構造
ある前提に基づいてある結論を導き出す知的作用のことを推論といいますが、推論には大きく3つのタイプがあり、それぞれを
・演繹
・帰納
・アブダクション
と呼びます。
それぞれの詳しい説明は省略しますが、基礎となる2つの推論である演繹と帰納についてざっくりと理解するならば
▼演繹
ある事実と関連する既知の法則に基づいて、妥当な結論導く
例)
(前提1)アリストテレスは人間である【事実】
(前提2)人間は死ぬ【法則】
よって
(結論)アリストテレスは死ぬ
▼帰納
同じ傾向を示す複数の事実に基づいて、一般的な法則を導く
(前提1)カラスAは黒い【事実】
(前提2)カラスBは黒い【事実】
よって
(結論)すべてのカラスは黒い【法則】
という説明を「はいはい、そうですね」と読めればOKです。
その上で、科学的思考の推論形式そのものであるアブダクションは以下のように説明されます。
▼アブダクション
ある事実と関連する既知の法則に基づいて、その事実を説明する仮説を導く
(前提1)ここには貝殻が埋まっている【事実】
(前提2)かつて海であった場所には貝殻が埋まっている【法則】
よって
(結論)ここはかつて海であった【仮説】
簡単に言えば、アブダクションとはある驚きの事実があったときに、「なんでこうなるのだろう?」と理由を考えるときの推論です。
・良いプレゼンをしたのに相手の反応が薄い
・いつも温厚な先生が今日はカリカリしている
・雨も降っていないのに隣の家の玄関先が濡れている
このように「あれ?」と思った瞬間、人は一瞬でその事実が整合的になるような仮説を発想します。
観察された疑問から理由の仮説を発想する思考方法がアブダクションであり、科学的推論の構造です。
「法則」に基づくのが科学的推論
上記を理解すると、科学の思考の中にはこの世界には必ず何らかの法則が存在することが前提にあるとわかります。
アブダクションの推論は「事実×法則→仮説」という構造であり、そもそも仮説を発想するにあたり「○○なときは××だ」という法則を前提に考えているのです。
従って、前提にある法則が間違っていれば、当然、仮説も間違っていることになります。
先程の例で言えば、もし「かつて海であった場所には貝殻が埋まっている」という法則が誤り(例えば、かつて海であっても貝殻が埋まっていない場所が沢山あったり、かつて海でないのに貝殻がたくさん埋まっている場所がたくさんあったり)であれば、「ここはかつて海であった」という仮説も間違っていることになります。
科学的推論の正しさは、前提として扱っている法則の正しさに依存するということができます。
「公理」による境界条件の設定
とはいえ、前提にしている法則が本当に正しいかを毎回確認するのは大変なので(それ自体が別の科学的推論の題材になりますね)、「今回この前提は正しいものとします!」と線引き(境界条件)を宣言して話を進めることが通常です。
例えば、数学ではその宣言の内容を「公理」といいます。
ユークリッド幾何学では、第一公理として「点を結ぶ直線はただ 1 本存在する」という法則を宣言しており、以降の内容はこの公理が成り立つ範囲でのみ妥当であると境界を引いています。
◆ユークリッド幾何学の公理
第一公理として「点を結ぶ直線はただ 1 本だけ存在する」
つまり、ユークリッド幾何学は二次元平面を想定したものであり、「北極から南極に地球の球面に沿って線を引く」といったことは想定されていない(それは直線とは定義しない)わけです。
同じように、高校の物理で学ぶニュートン力学は時間と空間の絶対性を前提としています。
◆ニュートン力学の公理
絶対時間と絶対空間
アインシュタインが相対論で明らかにした時間と空間の相対性、つまり、すべての存在が絶対的な時間を共有しているわけではないという事実は考慮の外になります。
いかなる科学理論もそれぞれが想定する公理系でのみ妥当するものであり、どんな状況でも例外なく成り立つ科学理論体系というものは存在しないことになります。
「絶対的に正しい法則」はありうるか?
科学理論が何らかの法則の正しさを前提に展開されていることを確認してきました。
そこで、「『絶対的に正しい法則』は存在するのか?」ということを考えてみましょう。
何らかの法則があり、それがいついかなる時でも正しいということが確認できれば、その法則を軸に理論を展開すれば、常に妥当する盤石な科学理論が作れるわけです。
先に結論を言ってしまうと、「それを確認するのは無理だよね」ということになります。
例えば、次の数列を考えてみましょう。
2,4,6,8,10,12
さてここで問題です。この数列において、12の次に来る数字は何でしょうか?
多くの人は、6つの数字の並びから「これは自然数の偶数の数列だから、12の次は14だ」と考えたのではないでしょうか。
しかし、この数列の続きが以下のようになっていたらどうでしょうか。
2,4,6,8,10,12,27,2,4,6,8,10,12,27,2,4,6,8,10,12,27
「なんでやねん」と思いつつ、12の次の数字は27でした。
では、この数列の最後の27の次に来る数字は何でしょうか?
そう問われれば、多くの人は、「2から27までの数列が3回繰り返されているから、次は4回目の繰り返しの最初の数字の2が来るだろう(でも、きっとまた裏切られるに違いない)」と考えたのではないでしょうか。
「オッカムの剃刀」の罠
この問題から明らかなのは、私たち人間は「きっとシンプルな法則に基づいて物事は推移しているのだろう」という暗黙の前提をもって未知な世界を予測しているということです。
「必要が無いなら多くのものを定立してはならない。少数の論理でよい場合は多数の論理を定立してはならない。」
オッカム(14世紀の哲学者)
これは倹約ともいわれる考え方で、私たちは「より少ない前提で世界が説明できるならその方がよい」という前提に立っており、これを「オッカムの剃刀」といいます(剃刀でムダなものを剃り落とす感じですね)。
先程の数列であれば、「明らかに偶数列に見える。ということは、複雑なことは考えず、偶数列ということでいいじゃないか」という判断を無意識的に行っているということです。
このように物事をよりシンプルな原理原則に還元しようとすると、世界は予測可能であるという思い込みに繋がります。
私たちは「2,4,6,8,10,12」という数列を見ると、誰も「これは偶数列だ」と言わなくても、ほぼ無意識のうちに「これは偶数列だから次は14だ。間違いない」と思い込んでしまいます。
本当は無限の可能性が考えられ、未来はランダムで予測不可能であるにも関わらず、一定の法則めいたものが見えるとそこに確信をもってしまう。
これが「オッカムの剃刀」のバイアスが生み出す、誤った結論を導いてしまう罠です。
私たちが安定的な法則だと思っているものも、次の瞬間からはまったく異なる振る舞いをする可能性が十分にあり、未来について確実なことは何も言えないのです。
それは本当に法則か?ー人間の知覚の限界
私たちが現象として認識したものの殆どは、全体に対するごく一部分に過ぎません。
「2,4,6,8,10,12」という数列を見ると、たった6つの数字でも「これは偶数列だ」と感じてしまいますが、もしかしたら数列全体は100京行あり、そのうちたまたまこの並びになった6文字が提示されたにすぎないかもしれません。
人間の生物としてのさまざまな限界を考慮すると、「これは法則的な振る舞いをしている」と感じるものにもこのようなバイアスが大きくかかっている可能性が十分にあります。
そもそも人間が感覚器官を通じて知覚できる情報には閾値があります。
心理学、精神物理学では丁度可知差異という概念がありますが、人間が違いを感じることができる刺激の強さには閾値があり、その時感じている刺激に対する一定の割合以上の刺激が追加されなければ人間はその刺激に気づくことができません。
例えば、自分の「老い」について、複数年単位で過去の自分と比較して「昔はもっと身体が動いたのにな」「昔はもっと肌がきれいだったのに」と思うことはあっても、「昨日より今日の方が身体が衰えてるな」と思うことはありません。
つまり、人間が認識可能な閾値を下回る水準で変化が起きているとき、そもそもその変化は人間にとってないものと同じということになりますので、当然、本当の意味で現象の全体を認識することはそもそも不可能なのです。
「これは法則だ!」と思ったとしても、全体のごく一部を恣意的に観察してそのように思っただけに過ぎない危険性が、人間のあらゆる推論には原理的に含まれているということになります。
科学は何も証明しない?
ここまでの話を大きく振り返ると
■ 科学の推論はアブダクションであり法則の存在を前提とする
■ 法則は一定の前提を区切った範囲で成り立つ
■ いま妥当な法則に見えるものも未来について妥当するかはわからない(オッカムの剃刀)
■ そもそも人間が法則を正しく認識できているか怪しい(閾値)
複雑な事象をシンプルに説明する「法則」というものの存在を私たちは期待しますが(オッカムの剃刀)、法則に見えるものも、本質的にはいつその期待が崩れるかは誰にも全くわからない、という世界に私たちは生きています。
以上の様な前提からすれば、「本質的には」科学の営みは未来について何も証明しないということができそうです。
ただし、日常のすべてを常に疑ってかかることは現実的ではありません。
ニュートン力学のパラダイムが相対論で拡張され、量子論、超弦理論と物理学が説明できる世界が広がり続けているように、予測可能な世界の境界が日々広がっていることもまた事実です。
論理的・科学的な推論の本質を知ることで、当たり前に思えるどんなことについても前提を疑う視点が持てるようになるのではないかと思います。
<参考図書>
おわりに
今回は論理的・科学的思考(推論)をテーマに、私たちがどのように世界を見るべきなのかについて考えるきっかけとなるような記事を作成しました。
このブログでは、論理的な思考法を中心に据えた様々なトピックを扱っていきますので、ぜひ他の記事も見ていただければ嬉しいです。
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